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震災ノート25-3 「実家のあった場所」

20140817

取材の合間をぬって実家に行ってみたのは、
震災から数か月してからだったように思う。


避難所にいたときに会った人たちの話や
やっと見られるようになったテレビや新聞のニュースから、
私が高校生までを過ごした実家のあたりが
跡形もなくなっていることは知っていたのだが、
それをこの目で見る勇気がなかなか出なかったのだ。


でも、いつかは見なくてはならない。


妹と二人で車に乗り、実家があった鹿折(ししおり)地区へと向かった。


この地区は気仙沼市でも特に被害が大きく、
津波と火災で地区のほとんどが消滅してしまった
と言ってもいいほどだった。


がれきとがれきの間を無理やり車を走らせるようにして
鹿折地区に入ると、
住宅や水産加工場がひしめき合っていたはずの場所は、
見渡す限りの荒野に変わり果てていた。


荒野のど真ん中、「鹿折唐桑駅」の近くには
全長60メートル、330トンという大型巻き網船
「第18共徳丸」が打ち上げられ、
そのわきを車が走る光景はとても現実のものとは思えなかった。


道路の両脇には、
焼け焦げて真っ黒になった状態で
積み重なったままになっている自動車や
もとは何だったかがまったくわからないがれきが積み上がって
焦げたようなにおいが空気に混じっている。


小中学生のときに毎日通った通学路も
見慣れた家並みも水産加工場もすべて、消えうせていた。


目印の建物すら残っていない道を走って、何とか実家の前にたどりつく。


車から降りて家のあった場所まで行くと、
家は土台のコンクリートだけを残してきれいさっぱりなくなっていた。


あはは。はははは。


人間はショックが大きすぎると、
気持ちが正常に作動しなくなるのだろうか。


笑いしか出てこなかった。


笑うしかなかった。



「ここが茶の間で、ここが事務所だったよね」。


残った土台の形からそれぞれの部屋の位置がわかると、
私たちの部屋に敷いていたオレンジ色のカーペットや
茶の間にあった背の高い食器棚や
台所の床板の明るい茶色などがありありと思い浮かんだ。



きれいになくなったのは、実家だけではなかった。


幼いころからなじんだあらゆるものが、
まるで最初から存在していなかったかのように
跡形もなく消え失せていた。


山のようながれきと地盤沈下した土地にたまった水、
加工場から流れ出て腐りかけている魚だけが
目の前にあるすべてだった。


いっしょにいた妹の表情は、思い出すことができない。


長年ここに住みながら商売を営んでいた両親が
震災の半年前に内陸部に引っ越していたおかげで
家族全員が無事だったのは奇跡としか言いようがなく、
それはこの悪夢のような状況の中で最大の救いだった。


それでも育った家が突如なくなってしまったという事実は
思った以上に心身にこたえ、じわじわと私を苦しめた。


本来なら建物に阻まれて
見えるはずのない位置にある「共徳丸」が
ここからでもハッキリ見えるのが奇妙でしかたなかった。









by hadashinok | 2014-08-17 08:06
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「はだしの圭」の熊谷圭子です。3月11日の震災の体験、そして震災が私の人生にもたらした変容の記録です。http://hadashinok.com/


by はだしの圭
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