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震災ノート28-2「また歩き出す日」

20140909

2012年、春。


倒れて休職してから4ヶ月が過ぎた。


心身の調子が戻るとありがたいことに
「ぜひ現場に復帰してほしい」
と何度も声をかけていただいたが、
私はNHKを去ることを決めた。


やりがいがあり日々充実していて大好きだった
記者の仕事を離れることには迷いもあった。


何しろ、ケーブルテレビの時代から通算で
12年もテレビ記者の仕事をしてきたのだ。


愛着がないわけがなかった。


それでもやはり、この仕事を卒業すべきときが来たのだ。


テレビのニュースとしてではなく、
自分の中からわきあがるものを
自分の言葉で伝えたいという想いが
熱いかたまりとなってうごめいていた。



その衝動に逆らうことは、どうしてもできなかった。




3月11日のあの日、猛火が迫る中で励まし合った人たち。


あの夜ラジオから聞こえた、希望の言葉。


自分の家族の安否すらわからない中で、
すぐに復旧活動に動き出した職員の人たちや
少しでもできることをしようと避難所の掃除を始めた中学生たち。


言葉少なに行動を通してそっと助けてくれた山形の人たち、
手紙で、電話で、心のこもった品物で、
「うちに避難して来て!」というメッセージで、
祈り続けることで、
被災後を支え続けてくれた友人たち。


遠方から労もいとわずかけつけて
あの絶望的なヘドロの中から
私たちが大切にしていたものを
ひとつひとつ拾い上げてくれたボランティアの人たち。



支え合い、励まし合って震災後をいっしょに生きてきた大切な家族。


そして震災というはかり知れぬ痛みや悲しみを抱えながら
それでも自分の人生を生き抜くと決めた
「被災者」という名前の勇敢なファイターたち。



たとえ今どんな状況にあっても、
どんなに前が見えなくても、
私たちはまた必ず未来に向かって歩いていくことができる。


そう彼らが教えてくれた。




今でも折にふれて思い出す風景がある。


震災から2ヶ月後の春、
まだガレキがほとんど手つかずで
1歩家の外に出れば地獄のような光景が広がっていた
2011年5月。


大きな余震が幾度も続き、
まだまだ死の恐怖が町を覆い尽くしていたころ。


私は突然、
それまではいたことのないようなヒールの高い靴を履きたくなった。


そのころは誰もが
支援でもらった間に合わせの服に
いつまた津波が来ても
すぐ逃げられるようスニーカーを履き、
食料や少しの着替えが詰まったリュックサックといういでたちで
じっとうつむきながら気仙沼の町を歩いていた。


いっさいの光と色を失ってしまった町に、
私たちみんながいっしょにとけてしまいそうだった。


そんな光景を見ていると、
強烈な気持ちがわき上がってきた。


「私たちは生きてるんだ!
 こんなモノクロの風景にまぎれてしまう
なんて、死んでもイヤだ!!」。


矢も盾もたまらずバスに飛び乗り、
出かけた先の仙台で7センチもヒールのあるの靴を買った。


それを履いて気仙沼の町にもういちど立つと、
粉々になった気持ちが戻って来るような気がした。


縮こまった背筋をぐんと伸ばしてあごを上げ、
慣れないヒールでガレキだらけの気仙沼をぐんぐん歩いた。




負けるもんか。


こんなことぐらいで、うつむいてたまるか。


まだまだ私たちは、終わりなんかじゃない。



泣きそうになりながら
ガレキにつまづきそうになりながら
どこまでも歩いたあのときの記憶は、
今でも私の中に鮮やかに息づいている。



生きていれば、いろんなことがある。


うれしいことも、楽しいことも、耐えがたい大きな喪失も
みんな同じようにやってきて、
予期せぬ衝撃に傷つくこともある。



けれど
今がどんなに辛くても、
生きている限り私たちにはまた必ず歩き出せるときが来る。


どんな人にも、必ず。


1歩を踏み出したその先には、
いったいどんな未来が待っているだろう?


どうしようもなくそれが見たくて、私は今日も歩いていく。






=完=








by hadashinok | 2014-10-24 16:06
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「はだしの圭」の熊谷圭子です。3月11日の震災の体験、そして震災が私の人生にもたらした変容の記録です。http://hadashinok.com/


by はだしの圭
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