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震災ノート23-4「取材再開」(第7章)

20130904

震災からほぼ1ヶ月で、私は記者の仕事を再開した。


震災前は「NHK気仙沼報道室」の記者とカメラマンを兼ね、
自分ひとりで気仙沼市と南三陸町のニュースを取材していたのだが、
未曾有の災害で仕事のやり方も一変した。


震災直後から「気仙沼前線」と呼ぶ取材拠点を市内に置き、
記者やカメラマン、
現場を取り仕切りながらニュース原稿をチェックする
デスクなどが全国からやってきて、
数週間単位で入れ替わりながら
チーム全体で取材にあたることになったのだ。


私はカメラマンと組んで記者として現場に赴くこともあれば、
その逆のこともあった。


どこへ行くにも必ず衛星携帯電話とヘルメットを
持って行くよう指示され、
余震や津波にはくれぐれも注意するようにと
どのデスクからも口をすっぱくして言われた。




復帰して初めて赴いたのは、
気仙沼市の中心地から車で40分ほど南下したところにある
「小泉地区」で
仮橋をかけるための工事が始まるという取材だった。


この一帯には
実に18メートルを超す大津波が押し寄せ、
地区の目印になるほど大きかった鉄骨の「小泉大橋」が流されてしまった。



がれきに埋もれて通ることのできない海沿いのルートを避け、
内陸を通って小泉地区に近づく。


道路は地震で段差ができたり路肩が崩れ落ちたりしていたが
それでも沿岸部の被害に比べれば、何ということはなかった。




震災後に初めて目にした
小泉地区のあの光景を、私は一生忘れない。


何もかもが、流されていた。


黄色い水仙が何キロにもわたって毎年春にみごとな花を咲かせ、
地元の人たちが親しみをこめて「水仙ロード」と呼んでいた道路は、
一帯が水に沈んでどこがどこだかわからなかった。


取材のときいつも車を停めさせてくれた道路沿いの家も
その近所も何もかも、
形あるあらゆるものが粉々になり砕け散って
ヘドロの中に散らばっていた。



ひとつだけ形を残していた物があった。


小泉大橋の橋脚だ。


鉄骨の橋は津波で寸断され、
かろうじて残った脚の上に
津波で土台ごと引きちぎられた家が乗っかっていた。


地上からはるか見上げるあの高さにまで、津波が到達したのだ・・・。




破壊のあとの空気に、
体ごと飲みこまれてしまいそうだった。


白昼夢の中をふわふわと歩いているようで、
ふみしめてもふみしめても足裏の感覚がない。


今思うと、
脳が意図的に感覚を鈍らせていたのだろう。


でなければあの場にまともに立つことなど、
とても不可能だった。


感覚をマヒさせることでようやく私は取材をすることができたのだ。




工事の責任者を待っている間、
現場で作業にあたっていた若い男性から話を聞いた。


同じ宮城県内の沿岸部にある彼の実家もまた、被災したのだという。


それでもこうして現場に出て
懸命に復旧にあたっている人が大勢いるという事実に、
胸が締め付けられた。


by hadashinok | 2014-08-07 21:34
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「はだしの圭」の熊谷圭子です。3月11日の震災の体験、そして震災が私の人生にもたらした変容の記録です。http://hadashinok.com/


by はだしの圭
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